夜間飛行

丸をください

青鬼に媚びる

「青鬼の褌を洗う女」という小説がある。主人公のサチコちゃんはにっこり媚びるのが得意な人だ。うろ覚えだがもし自分のもとに来た鬼が男だったら私は精一杯媚びて媚びながら死にたい、とか言っていた気がする。ここまで徹底している媚びはもはや脱帽ものである。

 

私は媚びを売る女性が大嫌いなのだが、最近自分が特定の人々に媚びた話し方をしていることに気が付いて自己嫌悪に陥っている。己の中にデフォルトで入っている悪い意味での女っぽさが無意識に出てきていることに心底恐怖を覚える。自分の認識として所謂「女らしさ」は意識して出したりひっこめたりできるものだと考えている。短いスカートだとか華やかな化粧みたいな、記号的なものを身につけなければ「女らしさ」は出ないものだと思っているので知らず知らずのうちに媚びた話し方という形で己の女の側面が露呈してしまっているのが嫌で仕方がない。気色が悪い。無意識のうちに自分の女性性を押し出そうとしているのがあさましい感じがする。

 

「~でしょう?」「~ね」「~かしら」「~よ」みたいな調子で話したり書いたりしている自覚はある。これは自分で分かっていてやっていることなので問題ない。これだけで媚びていることにはならない。問題は声のトーンである。普段のテンションよりも高く、甘く、若干語尾を上げて伸ばす話し方。文字に起こすと「明日は晴れるかしらぁ⤴」「あなたもそう思うでしょぉ~⤴?」みたいな感じ。きも過ぎて泣きたい。「~かしら」みたいな女言葉は私にとってミニスカートやハイヒールのようなもの、一種の演出であって、無意識に生の女らしさを表現するものではない。しかし無意識の甘くて高い声は自分でも自覚していなかった生々しい女の部分がむき出しになってしまっているので嫌なのだ。もっというと無意識にそんな声を、自身の女っぽさを利用しようとしている自分がたまらなく気持ち悪いのだ。

 

私はこの期に及んで自分が何をしようとしているのかが分からない。なんでこの記事を書いているのかも分からない。とりあえず媚びた話し方をしているのは絶対に嫌なのだ。男性に、年上に媚びてるのが何としても受け入れがたい。自分の中に媚びて、それによって女として見られたい?愛されたい?ような心があるのではないか?ということが許しがたい。そんなことしたって何にもならないのに。

 

この思考が若干ミソジニー味を帯びているものなんとも耐え難い。私はどうすればいいのだろう。助けてくれ。

 

 

野沢菜を電車に置き忘れた

先ほど草津旅行から帰ってまいりました。

 

久しぶりの遠出だったのでとても楽しかったです。くらーい性格の私でも泊りがけの旅行に行ける友達を大学で見つけることができました。有難い、得難いことです。


タイトルに書いたように私は野沢菜漬けを電車かどこかに忘れてしまいました。あ〜終わっちゃったな〜虚無ゥ〜みたいなテンションだったんですけど「野沢菜が無い」という事実に直面してそのような感傷はぶっ飛んだ。


たかが野沢菜、と鼻白んでも構わないのだが、私は野沢菜を食べることをそれはそれは楽しみていた。買ってから時折袋から出して「野沢菜♡」みたいな喜び方をしていたはずだ。それを電車かバスに忘れてきてしまった驚愕と自責の念は尋常じゃない。予定では朝ごはんに食べるつもりだったのに私の野沢菜はJRかどこかの忘れ物保管所か放置された漬物を持って帰るツワモノの食卓の上である。


悲しみに暮れてさよならして15分の友達に電話をかけた。駅前の交差点で「私の野沢菜!私のがー!!」なんて切実かつ馬鹿馬鹿しい叫び声を上げる大荷物の女にすれ違う人々は冷たい目線を送ってくる。私にとってお土産の野沢菜漬けは大切な食品だが半狂乱で野沢菜野沢菜!と叫ぶのは傍目から見ていておかしいだろう。


そんなわけで私は明日電話して「野沢菜の落とし物ありませんか」なんて言わなきゃいけないのだ。どうしても食べたいので執念で回収する。



ストッキングⅡ

 だいぶ前にこんな記事を書いたのだけれど

mitukonuit.hatenablog.com

 

通勤の塾バイトを辞めてからストッキングをはく機会が無かったのでストッキングへのくそでか感情をすっかり忘れていたのだが、入学式にストッキングへの憤懣やる方なき思いが目覚めてしまった。

 

スーツを着るために久しぶりにストッキングが必要になり、タンスの引き出しをあさっていたら新品以外はみーんな太もものところが伝線している。伝線どころかかなりひどく破れているものばかりだ。マニキュアでこれ以上伝線しないように頑張っていた涙ぐましい努力の痕跡が見える。塾バイトしていた時かなりの頻度でストッキングを買っていたはずなのに無事に生き残っている個体が無くて驚いてしまった。ストッキングを伝線させにくくする技術はあるがそれをやるとストッキングの売り上げが落ちるからあえて脆い製品を製造しているのではないかとストッキングメーカーの陰謀を疑ったこともある。私が駅前の怪しげなお店で特価で買い込んだストッキングは「SABRINA」ではなく粗悪な偽物の「SABURINA」なんじゃないかと疑ったこともある。

 

私はTwitterでストッキング手当をくれだのなんだのとストッキングへのくそでか感情を表明しているが、それに共感してくれる人が一定数存在する。やはり脆いストッキングが嫌いな人は私だけではないようだし私がバカなせいではないようだ。社会人になったらストッキングに苦しめられる日々が始まるのかと思うと憂鬱である。ズボン(パンツ?)が嫌いで私服で持っているズボンは母のお下がり一着きりの人間だが、ストッキングのほうが嫌いなのでズボン(スラックス?)出勤をするかもしれない。ちなみに塾のバイトはオンライン授業していいことになったのでこれ幸いと自宅から授業をした。ストッキングが嫌いでスーツを着たくないので自宅授業しますと宣言したら男性社員に笑われてしまった。誰が笑おうと私はこのような不便な物は極力使いたくない。

 

母にストッキングの不条理?を嘆いてもそんなもんです以上の回答を得られない。こんなもんらしい。なんだか生理用品を買う負担と同じものをストッキングには感じてしまう。決して払えない額ではないし社会生活を営む女性として必要だから買う。消耗品だから使ったそばからだめになり、買いつづけなくてはいけない。一つ一つは安くても塵も積もればで積み重ねると結構な額になる。おおっぴらに話すものではないし、高額なものではないから関係ない人には伝わりづらい。そんなもんだと割り切っていくしかない。化粧品や服と違って絶対に買わないといけない必需品なのでタチが悪い。しかもそれらを買うときのようなときめきが無い。アイシャドウや口紅は一度買えばしばらくは使えるし色やブランドを選ぶ楽しみがある。しかしストッキングや生理用品にその楽しみはない。せいぜいヌードベージュかナチュラルベージュを選ぶくらい、せいぜい花模様の包装の良い香りがついたものを選ぶくらいだ。特段楽しいことなんてない。破れたり汚れたりでゴミ箱に怨嗟を持って投げ込んだモノたちにえもいわれぬ業の深さを感じるばかり。

 

大袈裟だと思うでしょう?これを読んでたかがストッキングと思う方々はストッキング履いてパンプス履いて三日間生活してもらいたい。たぶん一本はストッキングを破くだろうしパンプスで脚は疲れ靴擦れを起こすだろう。もしかしたら走ってヒールを折ってしまうかもしれない。真剣にストッキング手当を出して欲しい。まじで。

 

 

ああ 卒業式で泣かないと

先日妹の卒業式があり、私はバイト遅刻ぎりぎりまで父と自宅で中継を見ていた。

 

最近の小学生の間では袴流行の兆しがあって、女の子の半分くらいは袴。色とりどりの袖や裾が翻っていてとても可愛らしい。登校の時間に妹が友達と連れ立って歩いていたが、とにかく可愛い。洋装よりも手間がかかり、子どもだけで始末ができないとかの理由で小学生の式服としての袴を悪く言う人が割といるが着たい子は着ていけばいいと思う。やはり晴れ着は華やかで鮮やかな方がお祝いの感じがする。黒や紺色のスーツも清楚だが私は袴のほうがふさわしいと感じる。

 

妹のクラスメイトには美容院で着つけてもらう子もいるらしいが妹には私が着せた。刺繍半襟を襦袢に縫い付けたり諸々の調整に前日の夜遅くまでかかったがその甲斐と母の助力のおかげでかなり綺麗に着せることが出来た。我が妹ながら上品にすんなりとしたよい着姿である。ぶっちゃけ美容院で着せてもらった子より綺麗だ。勝ち申した。壇上に上がって答辞的なものを読んだらしいからうまくいってよかった。妹の友達も綺麗に着こなしていて、二人の晴れやかなかわいらしさが双璧であった。褒めすぎ?タダで着付する素人たる私も妹のお友達のお母さんもミーハーで袴を着せているわけではなく、本格仕様なのだ。

 

子どもと着せ手の負担軽減なのか小学生向けのレンタル袴には襦袢を着せないことが多いらしい。ちょっと構造が分からないのだが中継画面を見る限り襦袢を着せないで伊達衿的な何かを付けているらしい。楽そうだが衿元が薄くて着崩れているように見えなくもない。楽なのだろうがやはり襦袢を着て襟元をきっちりさせた方が品よく見える。これは好みの問題だろうからお好みで選択すべきものであって私が口出しすべきところではないが。とりあえず妹を綺麗に仕上げることができてうれしい、よい卒業式に関われてうれしいという自己満がさく裂している。

 

実は私はこういう人間なので卒業式で泣いたことがない。

 

小学校の卒業式は卒業二日前にクラスで組織的ないじめがあったことが露呈し、葬式のようだった。卒業前日、隣のクラスが「○○先生ありがとう会」をサプライズでやっている頃、私のクラスでは加害者たち(クラスの約半数)への取り調べが続いていた。取り調べられなかった私たちは教室待機、暇すぎて教室の掃除をしていた。地元の中学ではない学校に進学することが決まっており、この面々と4月から顔を合わせなくてよかったので清々していたし、特段思い入れがない学校だったのでこの事件がなくても泣かなかったと思うが、やはり晴れやかな式にならなかったのは寂しい。この一連の事件で一番胸糞悪いのはいじめの加害者のくせに優等生づらしていた女子二人が担任にいじめを告発したことだ。この人たちも中学受験組だが、私の受験先を何も勉強しなくても合格できるとかなんとか失礼なことを言っていたのでかなり苦手だった。ちなみにそいつは馬鹿にした中学に落ちていた。そろそろ時効だろうしこの場で告発しておく。

 

中学校の卒業式は第一志望に落ちた直後だった。同じ高校を受けて合格した子の親が母に腫物に触れるように接してきたために母の機嫌が悪く、家庭の雰囲気が祝福ムードではなかった。落ちた張本人はなんとも思っておらず、むしろ併願先に行きたかったのでけろりとしていた。こういう精神構造だから泣かないのではないかと書きながら思ってきた。好きな男の子に第二ボタンをもらって、これで思い残すことなく女子校にいける、なんてのんきなことを考えていた。残念ながら泣くほど繊細な感情の回路を持ち合わせていないようだ。バカは風邪をひかないなんて言うが、バカは泣かないらしい。

 

高校の卒業式も泣かなかった。楽しすぎたのだ。良い友達と尊敬する師、納得のいく進学先に恵まれた私は笑いながら卒業した。いつでも会える友達といつでも帰ってこれる学校だったから泣く必要がどこにもなかった。小中が悲惨だったのでその分の幸福がここに巡ってきたらしい。これでコロナさえなければ完璧な卒業式であったが、それを追及するのはやめておこう。私は割と満足している。

 

こんな感じで私の小学校の卒業式は散々なものだったので、晴れやかに式に参加する妹を祝いたいのである。

 

 

かつて魔法少女だった私たちへ

キリ教のレポートを今書いているのだけれども、まだ時間があるという余裕と書くことが本当に思いつかないという理由でひさしく更新してなかったこちらを書く。ごきげんよう。この二文だけで3時間PCの前で粘ったキリ教レポートよりも文字数が多い。嗚呼!

 

私だってわかっているのよ!さっさとキリ教書いてもう一つの課題もやって速やかに春休みにした方が良いということを。そして劇場版セーラームーンを前編の公開終了までに観に行かないといけないということを。しかし仏教主義の高校で仏教に馴染みすぎてしまった私は、お香の匂いになつかしい愛着を覚える私は、カトリックの大学にうっかり入ったけれどキリスト教のノリにいまいちついていけない。宗教は好きなので(人間のやってることで一番人間くさいから)この話はレポートをやりたくない言い訳にしかならない。

 

本題。実は私はゆめかわいい世界観が好きなのである。魔法少女が好きなのである。あまりおおっぴらに表明しないけれど。似合わないから。それでも高校時代は校則が許す限りぎりぎりのゆめかわいい装飾を指定の鞄に施していた。化粧や髪飾りやスカート丈については中学生同然だが、なぜか鞄だけはノータッチだった。なぜ?全長20㎝はある水色のウサギのぬいぐるみだとか苺ミルクのキーホルダーだとかハートのストラップだとかをじゃらじゃらさせていた。はた目から見るとちょっと頭が弱くて痛い子だけど、かわいいのだもの。

 

ウサギの名前はマリー・エマニュエル・サフィール・ド・鈴木。奇矯極まりない。フランス貴族のくせに名字が鈴木である。どうかしている。この特製鞄にぱっつん前髪三つ編み姫カットの女子高生である。地雷搭載されていそう。よく友達もこんなやつの友達でいてくれたと思う。ありがとう。それにしてもこの水色のウサギエマニュエルはかなりインパクトが強いらしく、他校の知人もエマニュエルが見えたから私だと気が付いた、みたいなことを話していた。遠目からも気づかれやすい、便利なエマニュエルである。

 

今だってできることなら髪は漆黒ボブかフェルナンダ・リーみたいにハイブリーチしてマニパニのコットンキャンディピンクにしたいし、ヘリックスもインダスも空けたいし、地雷っぽい服が着たいし、ごてごてのネイルにしたい。でも残念ながら私は可愛い世界には場違いだったみたいでピンクも水色も似合わなくて、ボブも似合わなくて、ちっとも可愛くなくて、もっと言うとその世界に入るほど社会規範を飛び越える勇気もなくて、諦めをつけていつのまにかその世界観のことも忘れていた。そんなもんである。世の中に溶け込んで生きるということはこういう、その気になればできることを諦めて、忘れるということなのかもしれない。

 

黒髪もボブも似合わないし、バイトのせいでハイトーンも軟骨ピアスもできないし、可愛くないから地雷服も着れない。やってみたいことを諦める理由を正当化して、無難な人間になることがどうやら大人になることらしい。さっき自分の鞄のことを奇矯で頭が弱くて痛い子って言ったけれど、社会に適合した大人の視座から見て、ということだ。

 

変な子、痛い子、男受け悪そう、普通にしていればいいのになどと言われ続けて、魔法少女たちの多くはは平凡な、魔法を信じない大人になっていくのだろうか。寂しいね。てめぇに愛されるために化粧して髪巻いて服着てるんじゃないから口を出すなと再三にわたり主張しているがそれでも現実に適応していかなくてはならない。ゆめゆめ可愛いピンク色に溺れることはできない。

 

女の子はみんな魔法少女だったのだ。お砂糖とスパイスと素敵なもの全部、純度100%の魔法少女。きらきら光るステッキとかコンパクトで何にでも変身できて、強くなれた。もちろんバンダイのおもちゃで本当に変身はできないけれども、お砂糖とスパイスと素敵なものの力を借りて私たちは魔法少女になりきれた。その想像力こそが魔法少女魔法少女たらしめる原動力なのだ。目に見えない素敵な魔法の力を信じていたし、その瞬間私たちは紛れもなく魔法少女であったと今も信じている。

 

私は初代プリキュアからプリキュア5gogo世代だけれども、スプラッシュスターミックスコミューンプリキュア5のピンキーキャッチュとgogoのローズパクトを持っていた。もう手元にないので、このブログのためにググってあまりのなつかしさに悶死している。今みたいにテレビゲームが普及していない時代だったから(せいぜい初代DSかDSライト。今の小学生には信じられないだろうけどカメラ付いてなかった)、友達も変身アイテムはなにかしら持っていた。まだおジャ魔女どれみセーラームーンの変身アイテムも所持率が高い時代。練習タップとかね!

 

実は高校時代の鞄は魔法少女の復活という意味があったのではないか?もう身に着けるには似合わない、可愛すぎると諦めていたもの、お砂糖とスパイスの魔法を取り返したかった、と。女子高という閉鎖的で世間に適応しない自由があったモラトリアム的空間で、私は何を考えてエマニュエルを身に着けていたのだろう?三年生になってすぐ、エマニュエルは電車かどこかで行方不明になってしまった。受験生になり、いつまでも夢見る少女でいるわけにはいけなくなっていた。魔法少女の終焉である。

 

大学生になってそれなりに己の容姿に絶望したり着るものに迷ったりして現実を見ている。魔法を持たない私は特筆すべき美点を自分の容姿に見出せない。平凡かそれ以下。多くの人に愛される美しさや可愛さはない。それでも私は可愛いと思うものを全肯定していきたいし、水色のうさぎを付けていたあの頃の感性を大事に持っていたいと思っている。

 

そして私は必修の自由研究のためにと称してベルばらを読み、華麗なる昭和少女マンガの世界にみごとにはまり込んだのは以前お話したが、その自由研究の時に一緒に調べたポーの一族を現在耽読している。春休みになったらベルばらよろしくこちらも全巻買おうと思っている。オルフェウスの窓も読みたい。世の中が鬼滅の刃と呪術廻戦で盛り上がっているときにずっと昔の少女マンガを読み漁っているわけだから、これでも案外魔法少女のスピリットは多少残っているのかもしれない。切羽詰まっているときに限って人は急激に何かに夢中になるのである。これって追い詰められているものがうまくいかなかったときに「あれに心奪われていたからしょーがない」って自分に言い訳できるようにするためらしい。試験の前にやる気が出なくてだらだらしてるのも然り。

 

ともかくも私はキリ教のレポートを始末せねばならない。

 

追記:キリ教の討伐は終了しました。対あり。

 

 

オリオン座

今年はじめてオリオン座を見る。

 

もう2月だし、冬の星座たるオリオン座はずっと空にいたのだろう。長らく空を顧みることが無かったようだ。私の天体に関する知識は悲しいほど貧しいのでせいぜいオリオン座と北斗七星ぐらいしか見つけることができない。夏の大三角形などは小学校の夏休みの宿題で探すことはあったがもう分からない。ベガにアルタイルにデネブ?とか言われても全部それらしく見えてしまう。こんな調子だから星座を定めた人は本当に想像力豊かで空を見るのがよほど好きだったんだろうな、と思う。カストルポルックスの伝説は知ってる。それだけ。

 

とにかく私にとってオリオン座が空に出ていて、それを捉えることができる、ということが重要なのである。真ん中に綺麗に一列に並ぶ三つの星と、四隅で光る星。冬は厭な季節だ。日のあるうちは良いが夜は寒くて悲しくなってしまう。頬を刺す冷たい風が痛い。しかしその厳しい北風が冷たい空気を澄ませるからこそオリオン座は一層瞬くのである。

 

私がまだ小さかった頃、単身赴任中の父に会うために高速で二、三時間の移動を繰り返していた。大きな通りにも明かりが乏しく、一本わき道に逸れれば街灯の少ない寂しい道になる田舎の町(田舎は夜が早いのである)とかたやマンションや工場の明かりが幾つも光る大きな街。北関東の田舎町の冬の夜は子供ながらに恐ろしかった。この町が悪いのではない。子供の感じ方の問題である。夕方になるとどの自治体でも「もう夕方だからよい子はおうちに帰ろうね~」的な意味で音楽を流しているが、この町の夕方の音楽が苦手だった。たしか春を愛する人は…みたいな歌詞が付く歌らしいが、この物悲しいメロディーが怖くて、悲しくて、とにかく聞きたくなかった。こたつの中で耳を塞いでいた。市内のいくつものスピーカーから流れる音楽が若干のずれを生み、こだまのようにしばらく響いていた。

 

こんな忌々しい歌が響く頃、暮れかかる空に星が見え始める。さすがに大都市から離れ、夜は真っ暗になる地だけあって、星は素晴らしく良く見えた。首都圏に越してから、街の明かりが星空をかき消していることに、山が見えないことにとても驚いた。空に広がる星々を見上げて、私はオリオン座を探した。母と空を見ていたのを今でも覚えている。私と同様に母も天体に疎いのでオリオン座しか分からなかったが。北関東らしい乾いた風に星が瞬いていた。死んだ人はみな星になるんだよ、と母が言った。それを聞きながら、死んだらどの星になりたいかを空を見上げて考えていた。

 

そんな町から大きな街へ、あるいはその逆へと高速道路で赴くとき、オリオン座はいつでも冬の空に浮かんでいた。窓の外を眺めながら、嫌いだったパーキングエリアを通り過ぎ、遠くに畑を割ってできたショッピングモールが見え、「東京まで100㎞」の標識が立っていた。それ以外はほぼ山と畑と田が暗黒面を作っていた。十年一日のごとく高速道路沿いにはけばけばとしたラブホテルが建っていて、ただ南へ走っていく道は単調だった。この道はいつか来た道、いつまでも終わらない道、往けども往けども闇ばかり。そんな歌は当時知る由もなかったがそんな気持ちでいた。いくら進んでも風景はさして変化せず、相変わらずオリオン座がおなじ場所で光っていた。次の春には転居し、二つの町を頻繁に行き来することは無くなった。そのため私の記憶の中ではいつでもオリオン座が出ている。

 

このパーキングエリアが軽くトラウマとなった経緯を説明したい。その時母、私、妹は夜に父の単身赴任先へ行こうとしていた。私は7歳、妹はまだ1歳にもならない頃の話である。トイレに行きたかった私はパーキングエリアに車を止めてもらったが、小さい妹を車の中に残しておけなかったために母についてきてもらえなかった。仕方がないので雨がふるなかひとりトイレへ向かった。ここはパーキングエリアなのでただトイレと自販機があるのみの場所である。広いトイレは全部空いていて、白い蛍光灯が強く冷たく光っていた。いくつもの扉が影を落としていた。ただそれだけと言われればそれだけのことであるが…

 

話を戻そう。私はオリオン座を眺めながら車に乗っていた。県境の川を越えると、急に明かりが増える。大きな工場や物流センターが並ぶ風景が広がる。白や橙色や赤色の明かりで高速道路は急に都会的で近代的な雰囲気を持つ。東京が近い。ここまでくるとあんなにも無数に広がっているように見えた星が見えない。あのオリオン座も人間が作りだした明かりの群れを前に精彩を欠いて見える。私はオリオン座を追うことにいいかげん飽きて、その清冽さが色褪せて見えるほど眩く感じる明かりの洪水を眺めていた。ここまでくると疲れて眠くなり、景色はどうでもよくなっていた。しかし人間の文明の強靭さみたいなものをいくつものオレンジ色のランプやジャンクション近くのループ構造の道路や巨大な物流センターに見出して安心していたのである。

 

変な話であるが私は自然よりも人工が好きなのかもしれない。四方を山に囲まれて真っ暗な自然に近い場所よりも少々空気が悪かろうと騒がしかろうと人間がたくさんいる場所が好きだ。繁華街の人混みに文句を垂れながらも人間が作る賑わいを愛しているのである。街の明かりに紛れてかすんでいるオリオン座を眺めるくらいがちょうどいい。

 

 

 

 

着物を脱がせる

お久しぶりです。私は先日楽天で何枚か着物を買いました。一枚目は黒地に赤と白の菊。二枚めは生成り色に大陸っぽい牡丹。三枚目は紺地にこれもまた牡丹。牡丹柄好きなんです。全部布地いっぱいに大柄の花が詰め込まれた派手派手な素敵な着物。

 

美しい着姿には補正が必要らしい。着物に適しているのは寸胴なのでお腹にタオルを巻く。襟元がスカスカにならないように胸元にタオルを入れる。専用の補正グッズを使う。でもこれは正直美しくない。身体中タオルだらけで、幾本ものひもでぐるぐるに縛られてさしずめ大きな荷物の様だ。

 

外側から見たら整っているのかもしれないが、こんなに荷物か鎧のようにどんどこいろんなものが体に巻き付いていたら着物は息苦しく着るのに一苦労な衣服になってしまう。着物が斜陽産業の有閑マダムの趣味的な仰々しいものになったのはこの因習に近いような補正礼賛神話のせいもあるんじゃないかしらとも思う。

 

かくいう私も着物は詳しくはないのだが、着物は要所要所できちんと締めていけばそこまでの補正はいらないんじゃないかと思っている。(そもそも骨格ウェーブの常として着物向きな体格というのもあるが…)

 

和装ブラジャーなんてものは間違っても身に付けたくない。興味がある方はググってみるがよい。ダサいから。まじで。いくら平らな胸がいいといったってこんなものは絶対に着たくない。これもっとどうにかならないのかなぁ…

 

さっきも書いたけど補正は美しくない。別に見えないんだからいいじゃん、と思うかもしれないがそういう問題じゃない。なんかこう、もっと着物は情緒のあるものであってほしい。一個人の意見としては。袖口からこぼれる襦袢の色彩とか、ある趣味のもと選んで身に着ける帯や半襟とか、ただの衣服ではあるけれど細部にこだわりが満ちた衣服なのだ。

 

そんな着物の中身が幾本もの紐とタオルでできていたら興ざめだ(※あくまで一個人の意見です)。帯締めを解き、帯を解き、伊達締めを解き、紐を解き、そこでようやく華やかな長襦袢が見える。美しい着物というのは脱がせたくなる着物らしい。そして美しく脱がせられるにはぐるぐる巻きの補正は不要だろう。

 

なんだか谷崎潤一郎の読みすぎみたいな文章になっちゃった。余裕ができたら手直しする。またね!