夜間飛行

丸をください

かつて魔法少女だった私たちへ

キリ教のレポートを今書いているのだけれども、まだ時間があるという余裕と書くことが本当に思いつかないという理由でひさしく更新してなかったこちらを書く。ごきげんよう。この二文だけで3時間PCの前で粘ったキリ教レポートよりも文字数が多い。嗚呼!

 

私だってわかっているのよ!さっさとキリ教書いてもう一つの課題もやって速やかに春休みにした方が良いということを。そして劇場版セーラームーンを前編の公開終了までに観に行かないといけないということを。しかし仏教主義の高校で仏教に馴染みすぎてしまった私は、お香の匂いになつかしい愛着を覚える私は、カトリックの大学にうっかり入ったけれどキリスト教のノリにいまいちついていけない。宗教は好きなので(人間のやってることで一番人間くさいから)この話はレポートをやりたくない言い訳にしかならない。

 

本題。実は私はゆめかわいい世界観が好きなのである。魔法少女が好きなのである。あまりおおっぴらに表明しないけれど。似合わないから。それでも高校時代は校則が許す限りぎりぎりのゆめかわいい装飾を指定の鞄に施していた。化粧や髪飾りやスカート丈については中学生同然だが、なぜか鞄だけはノータッチだった。なぜ?全長20㎝はある水色のウサギのぬいぐるみだとか苺ミルクのキーホルダーだとかハートのストラップだとかをじゃらじゃらさせていた。はた目から見るとちょっと頭が弱くて痛い子だけど、かわいいのだもの。

 

ウサギの名前はマリー・エマニュエル・サフィール・ド・鈴木。奇矯極まりない。フランス貴族のくせに名字が鈴木である。どうかしている。この特製鞄にぱっつん前髪三つ編み姫カットの女子高生である。地雷搭載されていそう。よく友達もこんなやつの友達でいてくれたと思う。ありがとう。それにしてもこの水色のウサギエマニュエルはかなりインパクトが強いらしく、他校の知人もエマニュエルが見えたから私だと気が付いた、みたいなことを話していた。遠目からも気づかれやすい、便利なエマニュエルである。

 

今だってできることなら髪は漆黒ボブかフェルナンダ・リーみたいにハイブリーチしてマニパニのコットンキャンディピンクにしたいし、ヘリックスもインダスも空けたいし、地雷っぽい服が着たいし、ごてごてのネイルにしたい。でも残念ながら私は可愛い世界には場違いだったみたいでピンクも水色も似合わなくて、ボブも似合わなくて、ちっとも可愛くなくて、もっと言うとその世界に入るほど社会規範を飛び越える勇気もなくて、諦めをつけていつのまにかその世界観のことも忘れていた。そんなもんである。世の中に溶け込んで生きるということはこういう、その気になればできることを諦めて、忘れるということなのかもしれない。

 

黒髪もボブも似合わないし、バイトのせいでハイトーンも軟骨ピアスもできないし、可愛くないから地雷服も着れない。やってみたいことを諦める理由を正当化して、無難な人間になることがどうやら大人になることらしい。さっき自分の鞄のことを奇矯で頭が弱くて痛い子って言ったけれど、社会に適合した大人の視座から見て、ということだ。

 

変な子、痛い子、男受け悪そう、普通にしていればいいのになどと言われ続けて、魔法少女たちの多くはは平凡な、魔法を信じない大人になっていくのだろうか。寂しいね。てめぇに愛されるために化粧して髪巻いて服着てるんじゃないから口を出すなと再三にわたり主張しているがそれでも現実に適応していかなくてはならない。ゆめゆめ可愛いピンク色に溺れることはできない。

 

女の子はみんな魔法少女だったのだ。お砂糖とスパイスと素敵なもの全部、純度100%の魔法少女。きらきら光るステッキとかコンパクトで何にでも変身できて、強くなれた。もちろんバンダイのおもちゃで本当に変身はできないけれども、お砂糖とスパイスと素敵なものの力を借りて私たちは魔法少女になりきれた。その想像力こそが魔法少女魔法少女たらしめる原動力なのだ。目に見えない素敵な魔法の力を信じていたし、その瞬間私たちは紛れもなく魔法少女であったと今も信じている。

 

私は初代プリキュアからプリキュア5gogo世代だけれども、スプラッシュスターミックスコミューンプリキュア5のピンキーキャッチュとgogoのローズパクトを持っていた。もう手元にないので、このブログのためにググってあまりのなつかしさに悶死している。今みたいにテレビゲームが普及していない時代だったから(せいぜい初代DSかDSライト。今の小学生には信じられないだろうけどカメラ付いてなかった)、友達も変身アイテムはなにかしら持っていた。まだおジャ魔女どれみセーラームーンの変身アイテムも所持率が高い時代。練習タップとかね!

 

実は高校時代の鞄は魔法少女の復活という意味があったのではないか?もう身に着けるには似合わない、可愛すぎると諦めていたもの、お砂糖とスパイスの魔法を取り返したかった、と。女子高という閉鎖的で世間に適応しない自由があったモラトリアム的空間で、私は何を考えてエマニュエルを身に着けていたのだろう?三年生になってすぐ、エマニュエルは電車かどこかで行方不明になってしまった。受験生になり、いつまでも夢見る少女でいるわけにはいけなくなっていた。魔法少女の終焉である。

 

大学生になってそれなりに己の容姿に絶望したり着るものに迷ったりして現実を見ている。魔法を持たない私は特筆すべき美点を自分の容姿に見出せない。平凡かそれ以下。多くの人に愛される美しさや可愛さはない。それでも私は可愛いと思うものを全肯定していきたいし、水色のうさぎを付けていたあの頃の感性を大事に持っていたいと思っている。

 

そして私は必修の自由研究のためにと称してベルばらを読み、華麗なる昭和少女マンガの世界にみごとにはまり込んだのは以前お話したが、その自由研究の時に一緒に調べたポーの一族を現在耽読している。春休みになったらベルばらよろしくこちらも全巻買おうと思っている。オルフェウスの窓も読みたい。世の中が鬼滅の刃と呪術廻戦で盛り上がっているときにずっと昔の少女マンガを読み漁っているわけだから、これでも案外魔法少女のスピリットは多少残っているのかもしれない。切羽詰まっているときに限って人は急激に何かに夢中になるのである。これって追い詰められているものがうまくいかなかったときに「あれに心奪われていたからしょーがない」って自分に言い訳できるようにするためらしい。試験の前にやる気が出なくてだらだらしてるのも然り。

 

ともかくも私はキリ教のレポートを始末せねばならない。

 

追記:キリ教の討伐は終了しました。対あり。