夜間飛行

丸をください

ひとりの春

春は孤独な季節です。

 

わたしは一人が好きです。一人でコンサートにも美術館にも焼肉にも回転寿司にも旅行にもどこへでも行きます。家系ラーメンもひとりで食べられるようになりました。映画は一人じゃないと絶対に嫌だし、カラオケは嫌いです。映画は、一緒に来た人の動向が気になる。そして他人と映画の趣味が合わない。去年みんな見てたワンピースも全く興味が湧かず、そのころはシネマート新宿に通い詰めて王家衛作品を観ていました。カラオケは、だれかが一生懸命歌ってるときにほかの人が静かにデンモクとかスマホとかをずっと見ている状態に、勝手にひやひやして、自分だけはちゃんと聴かねばと必死になっています。リアクションにも選曲にも困る。

 

こういうタイプなので、一人なのは何の問題もないのです。むしろ一人の時間が十分に確保されていないと死んじゃう。でも、春はそうはいかないのです。毎年毎年毎年、いつもこうなのです。選択的ひとりのはずが、非常に孤独で、勝手に疎外感を覚えるのです。どうせわたしのこと、好きじゃないんでしょ、とか、そんなに大事じゃないんでしょ、と全人類に対して思っています。メンヘラの極致、自分勝手にもほどがあります。

 

春だよ!新生活だよ!という、みんなが浮足立つ時期だからなのでしょうか。それとも自律神経がどこかがおかしいのでしょうか。最近ずっとうっすら気分が悪くて、脂っぽいこってりした食べ物があまり食べられない。それでお酢をたっぷり入れた冷麺とかもずくばかりすすっていたら、母親に懐妊を疑われました。目が疲れて、パソコン仕事のバイトがちょっと辛い。おまけにうるさい曲が疲れるようになって、クレモンティーヌとか耳に優しい歌を聴いてる。やはり自律神経の問題かもしれません。

 

友達がいようと、彼氏がいようと(今はいないですが)、家族がいようと、関係ないのです。どうやっても誰かの一番になれない己のふがいなさ、というかそんなことをちまちま考えている器の小ささまで考えて落ち込みます。そうなのです、永遠にわたしは他者の周辺的存在なのです。恋人が金星、親友が水星だとしたら、冥王星くらいには遠いのです。

 

周辺的存在、決して一番になれない存在であることを儚んでいるわけですが、これって自分が、他人をそのように扱ってきた結果が帰ってきているだけなんです。「わたしたち親友だよね」で結束を固める女の子たちを全力で鼻白み、彼氏に夢中なあまり平気で友達をないがしろにする無邪気な女の子を疎み、自分は絶対あんなみっともないのになりたくないと、常に先約優先に、そして行動の単位を一人に設定して生きた結果、これです。いつの間にか、他人に依存しない強い子、みたいなラベルを張り付け、彼氏(今はいないですが)にもう少し自分のことを気にかけてくれても…と言わせてしまうのです。

 

誰かを一番大事にしなかった結果、そうすることをよしとしなかった結果、自分も一番に扱われないというわけです。望み好んでこの状態を作り出しているのです。誰にも依存しないで、ひとりで地面を踏みしめ、この二本足でりっぱに立つ、それを目指して生きていますが、その信条も、春の孤独の前には無力でした。でも、季節が変われば、元通りになると思います。自分を最優先に生きる人なんて現れたら、心底めんどくせえ!と多分思ってる。この季節がおかしいのです。全部春のせいです。

 

絶対春に寂しくなっちゃうひと、わたしだけじゃないと思うんです。昨日、犬の散歩をしていたら、柴犬を連れたおばちゃんが、白くてもちもちした犬(犬種は知らん)を連れたおばちゃんと立ち話しているのを見かけました。柴犬のおばちゃんが、「最近わたし、とても寂しくって」と白いもちもちのおばちゃんに話しています。柴犬がいようと、立ち話できる仲良しのおばちゃんがいようと、寂しいようです。

 

春は、自分だけ取り残されたような気持ちにさせてくれます。実際のところ全くそんなことはなくて、今のわたしは第一志望御社の内定があって、魚を上手に焼けるようになって、お洋服のためにせっせと働いて、卒業旅行と卒論のことだけを考えていればいいお気楽な身分で、そこそこうまくいっているのです。去年の晩秋あたりの、どんづまりみたいな時期から比べると、本当にすべてがうまくいっているといっても過言ではありません。でも、この孤独は、なんなんでしょう。誰かたすけて、とは言いません。柴犬のおばちゃんも孤独に耐えているのなら、わたしも立派に春をやり過ごして見せましょう。