夜間飛行

丸をください

花火にまつわるエトセトラ

もうすぐ八月だ。今年は全く梅雨が止む気配もなく、コロナウイルスのせいもあって例年とは違う夏になりそうである。

 

例年なら七月末に開催される筈だった地元の花火大会も中止である。高校一年生、二年生と友人や当時お付き合いしていた人と行った思い出深い花火大会(三年生の時は塾に行ってたよ、受験生だからね)に今年も行く予定であった。

 

友人「彼氏ができなかったらみんなで行こうな!」

 

そして我々高校同期の仲良し四人組はそろって彼氏ができなかったのである。フラグは完璧に回収された。

オンライン授業だし仕方ないよね!

 

しかしながらコロナのせいでそんな花火大会は中止になり、花火大会の雰囲気が大好きな自分は気落ちしているのである。そもそもオンライン授業なのもコロナのせいである。最悪だ。我々の時間と学費を返せ。

 

腰ひもを締める時、待ち合わせをする時、人混みを縫って歩く時、鼻緒の痛み、エトセトラ、エトセトラ…

花火大会はただ花火を見上げるだけのイベントではない。一瞬一瞬が心をきゅっと締め付けられるような素敵な夜だ。

 

こんなにも尊い夏の夜はそうそう人生の中で巡ってこない。何かが起こってしまいそうな、夏の夜の酔狂が人いきれの中に立ち込める。熱気と浴衣を通り抜ける夜風の涼しさが頭をぼんやりとさせる。

 

花火本体よりも思い出を彩る瞬間がたくさんあるのが花火大会の良いところだ。浴衣の腰ひもを締める感覚からそれは始まる。幸田文先生が随筆の中で「着物の腰ひもを締めるのは西洋の女性が息をつめてコルセットを身に着けるようなものだ」おっしゃっていたような気がする。長く着付けが持つように、綺麗な着姿になるように願って腰ひもをぎゅっと締める。お腹側でなく背中側で締めるとしっかり締めても苦しくない。新しい、深い水色に白い百合の模様の入った大柄な浴衣に、薄紫の帯を締める。綺麗に着られた満足感に浸りながらはやる気持ちで髪をまとめて化粧をする。なんとも楽しい支度の時間である。

 

そして待ち合わせ場所に向かう。友人たちが揃い、一通り「可愛い」の交換をする。よく女子の付き合いはうわべだけを褒めあっているだけだと揶揄している人がいるが、それは少なくとも私たちの中では嘘だ。彼女たちは本当に可愛いし、似合ってないと結構的確なアドバイスをしてくれるのである。ともかくグレーと白と紺色の地味な制服から色鮮やかな浴衣に着替えた姿は新鮮で、褒めあっているだけで楽しくなってしまう。

 

大きな花火大会なので駅でも沢山浴衣がけの人々を見かける。会場まで行くにもお喋りをしながらお祭りの雰囲気に浮足立つ。何を食べよう?とかあのカップルより私たちの方が楽しいに決まってる、だとかそんな他愛ないお喋りはいつもより賑やかだ。歩いているうちに夕方から夜に移り変わっていく。暗くなるにつれて熱気が高まっていくような気がする。

 

会場の大きな公園にたどり着く。屋台がひしめく通りは沢山の人で溢れかえっていて、人混みの中をはぐれないように手をつないで歩く。私はたしかあんず飴を買ったと思う。友人はお肉がごはんに巻き付いてる棒(なんていうんだろう)とかベビーカステラとか食べていた。屋台を物色して買ったものを分け合ったりするころ、花火が打ち上げられる。屋台の通りから少し離れたところで眺める。大きな音とともに花火が咲き、一筋一筋が弧線を描いて薄らぎ、消えていく。あるいは金色に爆ぜる。どこの会社がスポンサーなのか花火ごとにアナウンスが入る。

 

友人「スターマインって何?」

 

私も分からない。星みたいにきらきらしてるんだろう(適当)。多分。知らんけど。

 

そんなこんなで花火大会が終わり、帰途につく。まとめ髪が乱れている。あれだけ締めたのに浴衣が着崩れしてきている。慣れない安物の草履の鼻緒が痛む。花火大会の帰り道というのは名残惜しく、寂しく、疲れる道である。非日常の祭りが終わる。行きと違う道を通って迷子になりそうになる。電車は超満員で座るどころか乗車すらままならない。明日からは学校の夏期講座が始まる憂鬱を嘆きあう。しかし、こんな疲れた帰路もまた思い出深いものである。

 

翌日、浴衣を洗って干す。昨夜の楽しかったことを思い浮かべる。綺麗に畳んで仕舞う。浴衣にはそれを着て過ごした時間の記憶が残っているように思う。今年のようなコロナ禍の夏は一層夏祭りが懐かしまれる。来年はまた彼女たちと花火大会に行けるような夏になっていて欲しいと願っている。

 

私たちの15歳の夏休みは光り輝いていた。ただそれだけ。おわり。